日本の宇宙卵

日本の「宇宙卵」といえば、文献では、日本書紀の「鷄子とりのこ」が有名です。

『日本書紀(上・下) 全現代語訳・宇治谷 孟・出版1988 講談社学術文庫』

もっとも、この表現は、呉の徐整『三五略記』と『淮南子えなんじ』を典拠としていると言われています。詳しくは「中国の宇宙卵」を参照。


日本書紀(推定:養老4年:720)の冒頭に次のようにあります。

漢文と読み下しは「日本文学ガイド」・現代語訳は「古代日本まとめ」から拝借

漢文

古天地未剖、陰陽不分、渾沌如鷄子、溟涬而含牙。及其清陽者、薄靡而爲天、重濁者、淹滯而爲地、精妙之合摶易、重濁之凝竭難。故天先成而地後定。然後、神聖生其中焉。

補足
日本書紀 吉田本

巻第一(神代巻上)の写本(吉田本、2巻のうち)京都国立博物館蔵 国宝 鎌倉時代・弘安9年(1286年)卜部兼方奥書 画像は巻頭部分

読み下し

いにしへ天地あめつちいまわかれず、陰陽めをわかれざりしとき、渾沌まろかれたること鶏子とりのこごとくして、溟涬ほのかにしてきざしふふめり。

清陽すみあきらかなるものは、薄靡たなびきてあめり、おもくにごれるものは、淹滞つつゐてるにおよびて、くはしくたへなるがへるはむらがやすく、おもくにごれるがりたるはかたまがたし。

かれ、天りて地のちさだまる。しかうして後に、神聖かみ、其のなかれます。

現代語訳

昔、まだ天と地が分かれておらず、陰陽の別もまだ生じていなかった時、鶏の卵の中身のように固まっていなかった中に、ほの暗くぼんやりと何かが芽生ていた。

やがてその澄んで明るいものは、昇りたなびいて天となり、重く濁ったものは、下を覆い滞って大地となった。澄んで明るいものは、ひとつにまとまりやすかったが、重く濁ったものが固まるのには時間がかかった。

それゆえ、まずは天が出来上がり、大地はそのあとで出来た。その後、そのなかに神がお生まれになった。


図像・・・ビジュアルなものは思いつきません。

が、この機会に探索してみますと、「旧版の早川文庫「ユダの窓」をはじめとした文庫本の装丁を手がけている」幻想画家・イラストレーターの山田維史市のサイトに僥幸しました。

「法隆寺五重塔の心礎納置品である金と銀との、二重忍冬唐草文透かし彫り卵形容器」があるとのこと。

卵形の象徴と図像について 山田維史

卵塔は、いわば見え隠れする卵のシンボル。そして法隆寺五重塔の卵形舎利容器は、まさに僥倖のようにわれわれの前に顕現したのである。」

1926年(大正15・昭和元)偶然に発見された「法隆寺五重塔の舎利容器」ですが、それ以降でも、日本の中では、シンボルのカタチとして「円」は大いに意識されるものの、楕円の「卵型」はあまり意識されなかったのではないかと言えるようです。

さて、ここで「法隆寺五重塔の卵形舎利容器」について更に詳しく調べてみると・・・「大和法隆寺五重塔心礎」としての詳しい情報に遭遇しました。

日本の塔婆(がらくた置場)s.minaga氏

「仏舎利埋納」飛鳥資料館、平成元年より

  • 舎利埋納孔は径9寸2分(28cm)深さ1寸3分(4cm)の蓋受孔の下に径7寸5分(23cm)深さ8寸(24cm)の構造であった。
  • 舎利容器は外から響銅大碗、鍍金響銅宝珠紐合子、卵形透彫銀容器、卵形透彫金容器、銀栓ガラス瓶の入子の構造であった。
  • 大碗には海獣葡萄鏡(径3寸3分4厘)、ガラス玉、真珠、水晶片、瑠璃片が多数納入されていた。
  • 鍍金響銅宝珠紐合子には四方に銀の鎖を架ける、ここには卵形透彫銀容器のほかガラス玉、真珠、象牙管玉、水晶片、方解石片、瑠璃片があった。卵形透彫銀容器の高さは3寸2分(9.8cm)、金容器は2寸7分2厘(8.2cm)を測る。ガラス瓶は濃緑色を呈する。

五重塔舎利埋納状況 五重塔出土舎利容器:模造品 五重塔舎利容器ガラス瓶・銀栓

模造品だそうですが、卵形透彫銀容器と卵形透彫金容器の画像をピックアップしてみました。奈良国立文化財研究所飛鳥資料館発行の展覧会資料に掲載された写真。サイズは高さ10センチほどのようです。

 


最近のイースターのイベントグッズとしても珍重されているEggshell Carvingの作品ととても良く似たオブジェですね!

ハンドメイドマーケット「minne」から「エッグアート ランプ 青海波」

図録は手元にないので、推測になりますが、詳しく掲載されているようです。

¥1,000 (送料:¥300~)

著者 飛鳥資料館編
出版社 奈良国立文化財研究所飛鳥資料館
刊行年 平元(1989)
解説 【展覧会図録】A4判39頁 状態:良好 カラー図版8頁 飛鳥資料館図録第21冊 飛鳥の塔心礎/出土舎利容器概説 ほか

奈良文化財研究所の学術情報リポジトリ・サイトの「1991年3月20日 020 飛鳥資料館特別展示」ページにPDFの資料がありました。また、飛鳥資料館のサイトに展覧会のパンフレットも掲載されています。

特別展示「仏舎利埋納」平成元年(1989)4月5日~5月28日

ポスター

飛鳥資料館 春期特別展 仏舎利埋納 平成元年4月5日~5月28日

我国で出土した舎利容器のうち,遺物の現存するのは,崇福寺跡.太田廃寺(三島廃寺)・縄生廃寺・法輪寺・岐阜山田寺跡の5例がある。このほか法隆寺西院五重塔から出土した舎利容器は,再埋納されたが,模造品が残されている。

また,中宮寺では舎利容器そのものは出土しなかったが,荘厳具が地中の心礎上面より出土した。この他,遺物は現存しないが文献から,舎利容器の出土や舎利埋納状況の明らかになるものに,飛鳥寺・山田寺・本薬師寺がある。

こうした舎利容器の展示は,これまで催されたことはあるが,当館ではどのうな埋納状況であったかを主体とした企画をした。そのため,タイトルも「仏舎利埋納」を強調した。とくに,法輪寺・崇福寺跡は心礎の設置状況を実大で復原し,舎利孔に舎利容器を安置した。こうした展示法によって仏舎利の歴史的背紫を説明できた。

法隆寺の仏舎利容器は、地下3メートルに心礎(心柱の礎石)があり、心礎内から、1926年(大正15)に、ガラス製の舎利壺とこれを納める金製、銀製、銅製の容器からなる舎利容器が発見されたとのこと。

花崗岩の心礎の上面中央位置に直径・深さとも約27cmの円錐状の孔をうがち、鋳銅製の蓋で密閉され、安置されている。

ガラス瓶、金、銀、銅の容器を重ね仏舎利を納置するのは、釈迦の遺骸を金、銀、銅、鉄の棺に納めたとする故事にちなむ。

さらに検索をつづけると・・・

東京国立博物館 研究情報アーカイブにも模造品の画像ですが、舎利容器・海獣葡萄鏡がありました。サイトへのリンクを表示して無償利用します。

法隆寺舎利容器

東京国立博物館デジタルアーカイブから 撮影日: 1999-08-05

左にある銀製容器を拡大してみます。卵型の透彫りの様子がよくわかります。容器は縦に二分割、左右の針金で一体にしているようです。

さて、1926年(大正15)に発見された舎利容器、1949年(昭和24)10月3日に、心礎から一時移遷されました。詳しくは次のサイトに・・・

埃まみれの書棚から~古寺古仏の本~(第三十回)日々是古仏愛好HP

こちらに、一時移遷されたとき撮影したであろう現物とおもわしき画像がありました。

1954年(昭和29)1月に「法隆寺五重塔秘宝の調査」という報告書が限定500部印刷、複写転載禁で発行・・・その報告書に掲載された画像かもしれません。ともあれ、先のHPから孫引きさせていただきました。

白黒の画像ですが、模造品の画像にはない金銀の輝きがあるような・・・

法隆寺の創建は、推定:605=607年、再建は推定:680~710年頃とされています。卵型容器は605年の前に制作されたのかもしれません。

なお、模造品は、毎年11月の3日間だけ公開される「釈迦如来と四天王立像が安置してある法隆寺上御堂」に納めてあるそうです。仏像は公開されますが、卵形容器は公開されないようです。

補足資料

即位儀礼に見える仏舎利信仰 ―一代一度仏舎利使について― 大原眞弓 P55

初め日本では、インド・中国の伝統にのっとり塔の心礎に仏舎利が埋蔵された。その様子は先に挙げた飛鳥の法興寺の発掘や法隆寺五重塔心礎の調査でよく知られている。舎利は荘厳具(種々の珠玉)と共に舎利容器に納めるが、インド古制では二重三重四重の入れ子状態にし、その材料も内から金、銀、銅、鉄を使うのが本来の形式だとされている。

天智七年(668)建立の崇福寺(滋賀県)で発見された舎利容器はその典型的なものである。舎利が入った舎利容器はさらに石製の外容器に入れ埋納された。この様に厳重に舎利が埋納された理由として、河田貞氏は①インド伝来の伝統であること②数少ない舎利の散逸を防ぎ、保護する必要があったと解釈される。

さらに河田貞氏によると、塔心礎の舎利埋納は、法隆寺五重塔以降衰退し仏堂に祀られるようになる。その初例が養老三年(719)、法隆寺金堂であった。仏舎利の功徳を感じたいという風潮が高まり、身近に置いて礼拝するようになった。そのため舎利容器も開放的になり、時代の好みに合わせ美しく装飾された。
こうして舎利は聖徳太子信仰や弘法大師信仰と関わりながら、熱烈に多くの階層の人々から渇望された。またその必要性から、唐より大量の舎利が入唐僧によって日本にもたらされた。その状況は入唐僧の請来目録から見受けられる。

2)『法苑珠林』は唐の高宗総章元年(698)、西明寺の道世の著作。百巻。仏教に関わる用語・人物・思・経典・霊験譚等を幅広く載せる。仏舎利信仰は特に巻三八。四〇に詳しい。(『大正』53
) 道世は玄奘の弟といわれる。